式内 久刀寸兵主神社(豊岡市日高町久斗)
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概 要
社 号 久刀寸兵主神社
読み: 古 クトハヒヤウズ、クトニマス・・・、現 くとすひょうず
(クトスと読めるが、“寸”は村の省字であると思われる。この例は、滋賀県蒲生郡竜王町の苗村神社がかつては長寸神社と書き、寸は村の省字であることが書かれている。本来は「クトムラノヒャウズ」だ。いつごろからか寸をスと読みようになったものだろう。)
中古以来「鳴瀧大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ491
旧地名 但馬国気多郡高田郷久斗村
御祭神
主祭神 大国主尊(おおくにぬし のみこと)
配祀神 素盞鳴尊(すさのお のみこと)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 素盞嗚命
『国司文書 但馬郷名記抄』 大兵主神(武塔神・鹿島神・香取神・物部神・大伴神ら)…軍団守護の霊神なり
例祭日 10月10日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 人皇41代持統天皇朱鳥三年(689)(日高村郷土誌)、『国司文書 但馬神社系譜伝』人皇41代持統天皇巳丑(つちのと・うし)閏(持統天皇3年=689)8月、
明治45年7月新建
本殿様式 入母屋造 檜皮葺
境内摂末社(祭神)
八幡社 稲荷社
一口メモ
国道312号岩中交差点から旧県道(かつての西ノ気街道)を神鍋方面へ。久斗区のほぼ中心部に道に面して北側に鎮座。駐車場はない。
但馬に兵主神社は多いが、『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』によれば、孝徳天皇の大化3年(648)、朝来郡(朝来・養父・七美3郡を管轄)と気多郡(気多・出石・城崎・美含4郡を管轄)に軍団が同時期に設けられた。兵主神社は大化3年(648)兵主神社(朝来市山東町柿坪)、天武天皇12年(683)出石郡 大生部大兵主神社(豊岡市但東町薬王寺)と城崎郡 兵主神社(豊岡市赤石)に次いで、持統天皇3年(689)、久刀寸兵主神社がそれぞれに祀られたもの。
歴史・由緒等
式内社・久刀寸兵主神社に比定されている古社で 中古以来「鳴瀧大明神」と称していた。
由 緒
孝徳天皇大化3年(648)、気多郡の軍団に兵庫を設けてその鎮守として祀られたと云われる。-「兵庫県神社庁」-
[註] *1 軍団『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年、多遅麻国気多郡高田村において、兵庫(やぐら)を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団*1を置き、出石・気多・城崎・美含を管どらせる。
宇麻志摩遅命(うましまぢのみこと)の六世孫・伊香色男命(いかしこお-)の末裔、矢集連高負(やずめのむらじたかふ)を以って、大穀(だいき)*2と為し、
大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀(しょうき)*2とす。
景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉(こうい)*2と為し、
道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および的羽(いくは)の武矢・勇矢を以って旅師(ろそち)*2と為し、
伊多(井田・伊福)首の末裔、貴志麻侶、葦田首の末裔、千足、石作部の末裔、石井、日置部の末裔、多麻雄、楯縫部の末裔、鉾多知、美努(三野・今の野々庄)連の末裔、嘉津男等を以って隊正(たいしょう)*2としました。人皇41代持統天皇の己丑(つちのと・うし)3年秋7月 左右の京職および諸の国司に令して的場(いくはば)を築かしむ。
巳丑三年閏(689)閏(うるう)8月、 進大弐 忍海部(おしぬみべ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させた。広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始めました。
すなわち、兵主神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:射楯はのち石立、今の〃 国分寺)
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称す。
(うるう) 進大弐 忍海部(オシヌミベ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させる。 広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。
*1 国司務広参 天武位階で、明大壱から進広肆まで48階ある。務広参は30番目。兵主(ヘイズ)神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ491 )
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神となし、軍団守護の三神と称す。
(『国司文書 但馬故事記』第一条・気多郡)
軍団 (ぐんだん) は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。
平時の軍団は国司の下に置かれた。標準的な軍団の定員は千人であったが、後に軍団・兵員の縮小が実施され、小さな国ではこれより少なくなったり、廃止されたりした。小さな軍団は、百人単位で適当な大きさに編成されたらしい。記録上に見える一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、陸奥国の例では時代によって10000名で6個軍団、あるいは8000名で7個軍団という例も見られるため、千人を超える例も存在したと考えられている。
*2 大穀(だいき)・他
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
凡そ軍行においては、即ち、
弓一張、征箭*1(そや) 50隻、太刀一口、一火、
駄馬6頭、一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭(5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人をいちぐんだんと為す)
革鼓2面 軍穀これを掌り、
大角2口 校尉これを掌り、
小角4口 旅師これを掌り、
努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌り、
兵庫は主帳これを掌る。
能登臣命の末裔、広麿を以って主帳に任じ、兵器の出納および調達を掌らせ、兵卒を招集し、非常を警備し、駅鈴(えきれい)2を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に蔵し、国司これを掌り、典鑰(てんやく)3これを出納し、健児(こんでい)*4これを守衛する。
*2 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
*3 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*4 健児(こんでい) 奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
美含の郡司、桑原臣多奇市の四世孫、吉井麿は鈴蔵の典鑰と為る。
葦田氏は、剣(つるぎ)・鉾(ほこ)・鏑(かぶらや)・鏃(やじり)を鍛え、
矢作(やはぎ)氏は、弓矢を作り、
楯縫氏は、革楯・木楯を作る。
箭竹(やだけ)は竹貫氏これを調進し、
矢羽は、鳥取部これを調進す。
矢作の檀(まゆみ)は、真弓氏これを調進し、
鞘柄(さやつか)は、栗栖氏これを調進す。
石矛・石鎚は、石作氏これを調進す。
すべて鋳物は、伊多氏これお調進す。
矢作連(やはぎのむらじ)は経津主命(ふつぬしのみこと)の末裔なり。大穀、矢集連高負これを大和国に召し、多田(太田)村に置く。
真弓氏は二方国造、真弓射早彦の子なり。檀(まゆみ)を二方国真弓岡に徴し、これを作る。檀岡は山公峯男の領行する所なり。
竹貫氏はいわゆる武貫彦命の末裔なり。篠竹を篠丘に徴し、これを作る。篠民部村これなり。(今の豊岡市日高町篠垣)
鳥取部氏はいわゆる美努連の末裔なり。
栗栖氏は宇麻志摩遅命の末裔なり。
『日高村郷土誌』
「大日本神祇志」第十七に、
久斗寸兵主神社 寸、即ち村の省字。今は久斗村と称す。鳴滝大明神。相伝祀 須佐之男命、多寸比売命説云々。
又同書に
城崎郡兵主神社 今在赤石村 相伝祀 素戔嗚命、大己貴命 社伝云々
とあり、美含郡故事記追記は
武素戔嗚神(たけすさのおのかみ) 経津主命(ふつぬしのみこと) 武甕槌神(たけみかづちのみこと) 天忍日命(あめのおしひのみこと) 道臣命
を以てせり。神明帳考証にもまた、
出石郡大生部兵主神社 素戔嗚命
朝来郡兵主神社 素戔嗚命
とて、各書兵主神社祭神の須佐之男命なるを以て明示し、但馬式社鎮座考には、
兵主神社 素戔嗚命 鳴滝大明神 高田庄久斗
と載せたり。
すなわち、考えるに当社の祭神を大己貴命とせるは、後世の誤りにして当社の祭神は、おそらくは素戔嗚命なりしなるべし。宝暦九年出石村内明細帳神社書上帳に、
一 鳴滝大明神小社 三尺✕ニ二尺八寸 一 弁財天小社 二尺✕二二尺六寸
右は凡そ七百年程前に勧請仕し候。‥即ち鳴滝大明神兵主神社なれど、果たして何時の世に鳴滝の社号い用いでたるやは確証なし。又、宝暦の書上に凡そ七百年程以前に勧請すと云えるも謬(あやま)りにて、当社は延喜式にも表れたる古社なれば、七百年などと云うことあるべからず。要するに当社は尤(もっと)も由緒ある古社にて昔の武人の尊敬篤くありしことは、垣谷氏より祭典ごとに幣帛料を供進せしにても証し得るべきなり。
現今の建造物は、明治45年7月の新建にして久斗全村130戸の鎮守神なり。境内坪410坪 一座の末社あり八幡宮と云う。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)と大己貴命とするものなど諸説あります。久斗には、石龍 気多氏に由縁のあると思われる氏族が、気多郡団の軍司級といっていい地位にいました。後に(延暦四年)高田氏を賜った川人部広井で、高田郷に由来する氏族。但馬に設置された地域軍団の名称が確実に判るのは養父団と気多団の二つだけで、気多広井という名前が気多団の幹部だったのではなかろうか?!
この神社はその軍団と関係があってもいいはずだと考え、気多団はこの付近に設置され、兵庫(兵器庫)があった。
-日高町史より抜粋
石龍神社は別記の通り、粟嶋神社は今の道場区にある。元官有地が払い下げられたというとピンと来るのが神社裏手の水源地(国道482号久斗トンネル)と隣接するグンゼ日高工場(江原グンゼ)跡地にかけてだが、八幡社は小高い場所にあることが多いので国道482号線久斗トンネル辺りにあったのではないだろうか。
和妙抄気多郷の項で、延暦三年紀、但馬国気多団が気多軍団、当時ここ(気多神社(上ノ郷))に在り、高田郷を治めるために徒わせたたと伝わる。
和妙抄高田郷の項では、延暦四年、高田臣を賜った川人部広井は、延暦二十三年紀、気多郡高田郷に於いて但馬の国を治める。但馬考に今の高田郷は、夏栗、久斗、祢布(ニョウ)、石立、国分寺、水上(ミノカミ)の六邑。高田郷で一社のみ祇典所と記されている。「久斗村に須佐男命(スサノオノミコト)と多寸津比賣命((タキツヒメノミコト)を祀る鳴瀧明神と称えられるあり。」とある。
ここからは個人的な考察だが、但馬国は、平安時代の延喜式には、国力による分類(大国、上国、中国、下国)と都からの距離による分類(畿内、近国、中国、遠国)が行われたうちの上国・近国と記載され、『国司文書 但馬故事記』に大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀(しょうき)として1名のみ記載されているので、六百人以上の軍団(中団)だったと推測できる。
久刀寸について
すでに書いた通り、延喜式神名帳に「久刀寸兵主神社」と記されている。「クトハヒヤウスノ」と訓じられているが、久刀寸とはどういう意味なのか不明のままだった。
校補但馬考に「延喜式神名帳曰く、気多郡廿十一座、大四座、小十七座、…久斗寸兵主(クトハヒヤウスノ)神社あり」、寸は飛ばして「くとはひょうずのじんじゃ」とし、…「高田郷の祇典所、久斗村ノ兵主神社、在久斗村」と記されている。
これについては、久刀寸の寸を用いた社号には、知る限り他に例がなく、解釈不能である。村を寸と略すのは、苗村神社の公式サイトにも明記されており、久斗村は久刀村と書いていたので、当時の延喜式記録者の久刀村の村の誤記であると思わざるをえない。
久斗は久刀と訓じられている。気多郡に兵庫が置かれ、兵主神社を建てたことから、武器が多いことを祈って久刀と書いたと考えられなくもない。
久刀寸兵主神社は、気多郡の中心を東西につなぐ重要な旧西気街道沿いの地形的にも気多氏を封じ込めるには最適のここしかない細長い谷間に位置し鎮座していて、境内も広く日高町でも大きな神社の一つであります。このあたりに但馬北部方面を統括する朝廷の命を賜った気多団がいました。
兵主神は、本来物部氏ゆかりの神社であり八千矛神とするなら、矛は当然物部氏も用いていました。それでは何故銅鐸だけが邪魔になったのであろうか?
境内・社叢
鳥居・社号標 手水舎
狛犬
境内 拝殿
拝殿・本殿 本殿
但馬には兵主神社が多いですが、この社はとくに立派な建築が保存の良い状態で残されています。
境内社 左手奥(北側)に稲荷社 八幡社
久斗区にはもうひとつ神社があります。
校補但馬考に「延喜式神名帳曰く、気多郡廿十一座、大四座、小十七座、…久斗寸兵主(クトハヒヤウスノ)神社あり、此村にいます也、又此村の溪辺に巨石あり、中に小蛇ありて蟠(わだかま)りをる「幾年なる」を知らす、時々石の縫間(割れ目)に身を露(あらわ)して、終に其の首尾を出さす。土人(土地の人)称えるに石龍と云う。大明一統志を考るに、重慶府の城西二十里に蟄(ちつ)龍巌あり、石の縫間より泉出て、巌下に潟(そそぎ)入、其の泉に二小龍あり、雨を祈ればすなわち応ず。張公佐これか記を作ると、今此の地のある所も、蟄龍巌なり。」
地名・地誌
高田郷
高田郷は高機郷なり。大初瀬幼武天皇(雄略)の御世16年夏6月、
秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
久斗(くと)
高田村から久刀村へ
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国気多郡高田邑に於いて、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どる。
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